吹奏楽部にとって、楽器は命そのものです。
しかし、私が北中学校で吹奏楽部を発足させた創部当時は、圧倒的な楽器不足に悩まされていました。演奏できる生徒がいても、楽器がなければ何一つ音を奏でることはできません。
やりたいと思って入部してきても、練習すらままならないのが現実でした。
今回は、一本のサックスを求めて夜通し走った「愛のリレー」や、地域を巻き込んだ楽器探しの物語を振り返りながら、物のない不自由さが教えてくれた大切なことについてお話ししたいと思います。
自分の貯金を下ろしてでも…「音」を届けたかった日々

サトルくん(当時の教え子)吹奏楽を始めた一、二年目は、とにかく楽器がありませんでした。
五十人編成の標準的なバンドの場合、必要な楽器をすべて揃えると、購入費は一番安いものでも五百万円から六百万円にのぼります。
公費で揃えるには限界があり、新年度予算で希望を出しても、実際に発注できるのは七月に入ってからということも珍しくありませんでした。
そこで頼りになったのが、地域紙の告知板欄です。毎週、生徒たちも目を皿のようにして「譲ります」のコーナーをチェックしていました。
目ぼしい中古品があると、私は必ず自分の貯金を下ろして買い込みました。先生が自腹を切るなんて、と驚かれるかもしれませんが、当時は「今、目の前の生徒に吹かせてあげたい」という一心だったのです。
「先生、載ってたよ」と切り抜きを持って走ってくる生徒たちの姿に、「ヨシ」とばかりに職員室から電話をかける。そんなチームワークの良さが、私たちの活動を支えていました。
大津から生駒へ。夜通し繋いだ「愛のリレー」


「奈良まつり」への出演を明日に控えた夏のことです。
新学期の部員増で、一年生部員のA子のテナーサックスが一本足りないという事態が発生しました。方々へ電話で頼んだものの、ちょうど八月のコンクール前とあって、どこも都合がつきません。
必死で楽器探しをしていたA子は、友だちのB子の親戚に使っていないテナーサックスがあることを聞きつけました。
なんと、B子のお父さんが大津の先方まで取りに行ってくれるというのです。向こうの方も途中まで車で運んでくれて、まさに「愛のリレー」でした。
夜中に楽器が届き、それから夜通し練習したA子は、しっかりと曲を覚え、次の日の本番には奈良市内のパレードで立派に演奏を果たすことができました。
「借りに行く姿」を生徒に見せる理由


どうしても不足しているパートからは、本番が近づくとパートリーダーが私のところへ陳情にやってきます。
「先生、うちのパートは五人で楽器は三つ。美紀と里子に楽器がないんです。文化祭にどうしましょう。なんとか出してやりたいんですが…」
私に「ムリだからあきらめろ」と言わせないように、彼らはしっかりと練習してから来るのですから、私も必死にならざるを得ません。
他校へ借用を申し入れ、快く貸していただけることになると、私はあえて楽器を使う生徒たちを車に乗せて、一緒に借りに行きました。
私が借りてきて「はい、どうぞ」と渡すのではなく、貸してくれる人の顔、その想いを直接感じることで、「大切に使う」という心、そして感謝の念を学んでほしかったからです。
一緒に頭を下げる中で、生徒たちは人としての大切なことをわかってくれたのではないかと思います。
物のない「不自由」が教えてくれたもの





お金さえ出せば欲しい物は何でも手に入る現代、子供たちは物のない悔しさを感じずに育っているためか、物を大切にしない傾向があるように感じます。
しかし、部の活動の中で楽器不足という大問題にぶつかると、友達同士でうまく譲り合い、一つの楽器を共有して練習するようになります。
「みんなが応援してくれているのだから、学校行事で精一杯演奏して、お返しをしなければ」という私の言葉に、大きく頷く子どもたち。
いろいろな初期の苦難を乗り越え、一歩一歩、部員たちが団結を強めていく中で、楽器を借りに走ったり自費で工面したりすることも、次第に楽しい思い出となっていきました。
物が溢れる現代では失われがちな、物を慈しみ、仲間と協力する精神が、皮肉にも「楽器不足」という苦難の中で育まれていったのです。
教育の場に「不自由」があることは、必ずしもマイナスではありません。
どうすれば解決できるか知恵を出し、周りの助けに感謝する。
そのプロセスこそが、高度な音楽技術よりも先に、子供たちの人格を形成する大きな力になったのです。
▶ 次回は、進学と部活動の両立という深刻な問題に向き合った日々をお届けします。


