誰の人生にも、ひとつやふたつ、「記憶の特等席」とでも呼びたくなる曲があるのではないでしょうか。ただ聴くだけで、ある日の空の色や、もう会えない大切な人の横顔が、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇ってくる――そんな一曲です。
私にとってのそれは、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲 ホ短調。クラシック音楽を愛する人々が、親しみを込めて「メンコン」と呼ぶ、あの名曲でございます。
今日は少しだけ、私の昔語りにお付き合いくださいませ。クラシックを愛し、小説家を夢見ていた父と、トトロの世界のような里山で過ごした少年時代の思い出とともに、この曲が持つ切なくも美しい魅力について、綴ってまいりたいと思います。
ラジオから流れてきた、あの旋律

あれは昭和の、まだテレビよりもラジオが家の主役だった頃のことです。クラシック音楽が大好きだった父は、休みの日になると、よくラジオの音楽番組に耳を傾けておりました。
その父が、とりわけ好んで流していたのが、この「メンコン」だったのです。やわらかなオーケストラの響きに乗って、すっと立ちのぼってくるヴァイオリンの音色。幼い私には曲名などわかりません。それでも、あの甘く、どこか淋しげな旋律だけは、いつのまにか身体の奥へと染み込んでいきました。
トトロの世界のような、生駒の日々

小説家を志した父は、私が小学校に上がる頃、それまで勤めていた大阪市の区役所を思い切って退職しました。街の喧騒を離れ、家族で奈良の生駒へと移り住んだのです。
毎日、水車小屋のある小径を通って小学校へ通った記憶は、今振り返れば、まさに宮崎駿監督の映画「となりのトトロ」の世界そのものでした。緑の匂い、水の音、ゆっくりと回る水車。あの静けさは、今も私の胸の奥に大切にしまわれています。
父の書斎には、芥川龍之介や横山大観の本がずらりと並んでおりました。父は来る日も来る日も、その机に向かい、小説の構想を静かに練り続けていたのです。
苦悩する父の部屋に響いた、ロマン派の調べ

けれども、創作の道は決して平坦ではありません。父が執筆に行き詰まり、思い悩んでいるとき、書斎にはいつも決まって音楽が流れておりました。モーツァルト、ベートーヴェン、そして速度感あふれるメンデルスゾーン。
言葉が出てこない苦しさを、父は音楽にそっと預けていたのかもしれません。そうして、あの有名な冒頭の旋律は、知らず知らずのうちに、幼い私の身体の一部になっていったのでございます。
ここで少し、この「メンコン」という曲そのものについて、お話しさせてください。
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲 ホ短調は、ロマン派を代表する傑作のひとつです。ヴァイオリニストを志す者なら、誰もが必ず一度は通る、本格的なコンチェルトでもあります。
何より印象的なのは、その始まり方です。オーケストラの控えめな伴奏に乗って、開始からわずか数秒で、ソロ・ヴァイオリンが美しく切ないテーマを歌い出すのです。それはまるで、人間が胸の内の想いを言葉にしようとするかのよう。聴く者の心を、深いところからそっと揺さぶってきます。
この曲を聴きたい、三つのとき

もしまだこの曲をじっくり聴いたことがないという方がいらっしゃいましたら、こんなときにそっと耳を傾けてみてください。
- 静かな夜、一日の終わりに。冒頭の旋律が、張りつめた心をやさしくほどいてくれます。
- 大切な人を、ふと思い出したいとき。切ない調べが、遠い記憶の扉をそっと開いてくれます。
- これから何かを始めようとする、あなたへ。歌うようなヴァイオリンが、一歩を踏み出す背中を押してくれます。
机に向かう、父の背中

あれから、長い長い歳月が流れました。それでも、あの甘く淋しげなヴァイオリンの旋律を聴くたびに、私の胸には決まって同じ風景が浮かびます。
生駒の、あの澄んだ静けさ。そして、書斎の机に向かい、ひたむきにペンを走らせていた父の背中。ふたつの記憶が、メンコンの調べの上で、そっと重なり合うのです。
これはもう、私にとって唯一無二の、かけがえのない一曲でございます。あなたにとっての「記憶の特等席」には、どんな曲が座っているでしょうか。よろしければ、いつかそっと教えてくださいね。
参考文献
- メンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64》(1844年初演)に関する一般的な楽曲解説
- ロマン派音楽およびヴァイオリン協奏曲の位置づけに関する音楽史の概説


