「なぜ理科の教師になったのですか?」
灯台守
これまで指揮者や音楽教育者としての側面をお話しすることが多かった私ですが、時折そんな質問をいただくことがあります。
その答えは、30年以上にわたる教員生活よりもずっと前、戦後間もない日本の混乱の中で夢中になった「ものづくり」の記憶の中にあります。
82歳になった今、私の人生のもう一つの羅針盤であった「技術」への航海の軌跡を、この新しいカテゴリーで綴っていきたいと思います。
プロローグ:1949年、5歳の夏の記憶
すべての原点は、1949年(昭和24年)に遡ります。当時、大阪市の鶴橋に住んでいた5歳の私にとって、近鉄電車に乗って上本町のターミナルへ連れて行ってもらうのは、何よりの楽しみでした。
しかし、模型などとても買ってもらえる時代ではありません。その抑えきれない「憧れ」が、私の創造力に火をつけたのです。
手に入らないなら、自分で作るしかない。
私は何枚も紙を繋ぎ合わせ、来る日も来る日も自分だけの列車を描き続けました。
その時の絵が、77年の時を経て、今もこうして手元に残っていることに、自分でも驚きを隠せません。


憧れを「設計」へ:中学1年生のデッサン
5歳の時の純粋な憧れは、数年後、確かな「技術」へと進化を遂げます。
中学生になると、私の興味は日本の電車から、よりパワフルで流線型のフォルムを持つアメリカ大陸横断列車へと移っていました。その憧れを、今度は精巧なデッサンとして表現し始めたのです。





描けるなら、作れるはずだ。私はこのデッサンをもとに、ボール紙と板を使ってHOゲージの車両を自作しました。
台車と車輪だけは科学教材社の通信販売で購入し、畳一畳ほどのスペースにレールを敷いて走らせた時の感動は、今も鮮明に覚えています。


仕組みを解き明かす「魔法の回路」
鉄道模型と並行して、私の知的好奇心を爆発させたのが「ラジオ」の世界でした。
最初に組み立てたのは、電池もいらない鉱石ラジオ。アンテナ線を張り、イヤホンを耳に当てると、どこからか進駐軍向けの英語放送が聞こえてくる。なぜ音が鳴るのか、その仕組みが知りたくてたまらなくなりました。


「信号機の光」と3年連続の栄冠
ものづくりへの情熱は、学校の発明工夫展で花開きます。
中学2年生の時、街で見た交通信号機の、赤・黄・緑と自動的に変わる光に魅了され、その仕組みを自作して出品。これが「奈良県商工会議所会頭賞」という大きな評価を受けました。
そして3年生の時には、真空管アンプを出品し、再び入賞。理科の先生がわざわざ記念写真を撮ってくださった時の、誇らしい気持ちと喜びは、私が理科教師の道を目指す決定的なきっかけとなりました。




紙と板から、世界へ。そして次世代への絆
中学生の時に抱いた「自分だけの鉄道王国」を作りたいという夢。それは、私が教師になってから、より精巧なジオラマとして現実のものとなりました。
しかし、このジオラマは私一人の力で完成したわけではありません。中学校で吹奏楽部のアドバイザーをしていた頃の教え子が、私の家に頻繁に遊びに来ては、製作を手伝ってくれたのです。技術が、世代を超えた絆を育んでくれました。




結び:運命の「無線」との出会い



紙に描いた一本の線路から始まった私のものづくりの旅。それはやがて、0.1ミリ単位の精度が求められるハンダ付けの世界、そして電波に乗って世界と繋がる「アマチュア無線」という広大な海へと続いていきます。
その決定的な出会いは、中学2年生の時、近鉄奈良線・菖蒲池駅(あやめいけえき)のそばにあったあやめ池遊園地で偶然目にした公開運用イベントでのことでした。次回は、その運命の出会いについてお話ししたいと思います。
【現在の無線家としての活動はこちら】
82歳になった今も現役で楽しんでいるアマチュア無線の日常や、
最新の交信記録については、私の専門ブログ「無線ブログ JA3CGZ」にて公開しています。

