2024年10月、日本被団(日本原水被害団体協議会)がノーベル平和賞を受賞しました。
唯一の被爆国である日本の立場から、世界に向けて平和のメッセージを発信し続けてきた被爆者たちの声は、一歩の廃絶に向けて重要な一歩となりました。
本記事では、日本被団協の活動の歴史、彼らが果たした役割、そして国際社会がこの受賞に対してどのように反応しているのかを詳しく見ていきます。
日本被団協とは?
日本被団協は、原爆の被害を受けた人々が集まり、核兵器廃絶を目指して活動する団体です。
1956年に設立され、被爆者の健康管理や生活支援、そして核兵器廃絶を訴える活動を続けてきました。
1982年には山口氏が国連の軍縮特別総会で被爆者として初めて演壇に立ち、2016年にはオバマ前大統領が広島を訪問し、被団協の坪井氏と対話を行いました。
今回の受賞により、唯一の被爆国である日本の核廃絶への国際的影響力が高まると期待されています。核兵器廃絶にはまだ遠い道のりがあるものの、この受賞は大きな一歩となるでしょう3。
韓国の被爆者団体も「核兵器の危険性を知らせるのに役立つ」と評価し、国際的な共感を呼んでいます。
また、ノーベル委員会は「被爆者の証言が核兵器の使用を道徳的に受け入れがたいものとする規範の成立に大いに貢献した」と述べています。
この受賞を機に、広島・長崎がさらに注目され、核兵器廃絶が少しでも進むことを願う声が多く寄せられています。
ノーベル平和賞受賞の理由
ノーベル委員会は、日本被団協の長年にわたる核兵器廃絶への取り組みを評価し、平和賞を授与しました。
原爆の惨禍を生き抜いた被爆者の方たちは、差別や困窮を乗り越え、核兵器の残虐性と不可逆性を訴え続けて来られました。
後遺障害や経済的困難にもかかわらず、彼らは世界に向けて運動を続けました。その原動力は、自分や身近な人々、ふるさとを一瞬にして奪った原爆への怒りと、同じ苦しみを他の誰にも味わわせないという強い意志だったのではないでしょうか。
運動の過程で多くの被爆者が亡くなりましたが、残された人々や次世代がその意思を引き継ぎ、運動は広がり続けました。彼らの努力は、核兵器廃絶の心を世界中に広めることに貢献しました。
核兵器による「均衡」は、常に核兵器が頭上に落ちる恐怖と共に生きることを意味します。現在もガザやウクライナなどで死の恐怖に直面している人々がいます。ノーベル平和賞の委員会は、現代の危うさを前に、被団協の続けた努力を高く評価したのでしょう。
被爆者の声
被爆者たちの証言は、核兵器廃絶運動の原動力となっています。
彼らの経験は、核兵器の非人道性を強く訴えるものであり、多くの人々の心を動かしてきました。
例えば、広島で被爆した田中さんは、「核兵器がもたらす悲劇を二度と繰り返してはならない」と語り、その言葉は多くの人々に深い感銘を与えました。
国際社会の反応
日本被団協のノーベル平和賞受賞に対して、世界各国から祝福の声が寄せられています。
国際メディアもこのニュースを大きく取り上げ、核軍縮の重要性が再認識されていくことでしょう。
「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」がノーベル平和賞を受賞したことは、日本人として非常に嬉しく、誇りに思います。
これこそが「ノーベル平和賞」の本来の姿だと感じます。この受賞を機に、広島・長崎がさらに注目され、核兵器廃絶が少しでも進むことを願っています。
私も原水禁運動に参加しました!
私の記憶の中の原水禁を述べてみたいと思います。
第五福竜丸事件
小学校(10歳)頃の記憶として、日本国内にも「死の灰」が降るのではないかという恐怖を感じたことがあります。
1954年3月1日未明、アメリカが太平洋ビキニ環礁で水爆実験「ブラボー」を行いました。
広島に落とされた原爆の1000倍の威力により出た「死の灰」はマーシャル諸島島民や周辺海域で操業していた日本などのマグロ漁船に降り注ぎました。
日本人が、3度目に被爆した「第五福竜丸事件」です。
日本の原水爆禁止運動の出発点となったのはビキニ事件です。
原水爆禁止運動、参加の記憶
大学2年生頃でしたか、8月に広島と長崎で開かれる原水禁大会に参加しました。
大会前には、同じ志を持つ仲間たちとともに、夏の日差しの下、家々訪ね歩きながら、署名と募金を集めました。
大会では、全国から集まった仲間たちと共に「原爆をゆるすまじ」が歌われ、私もアコーディオン演奏で参加しました。
原水禁運動と3つの楽曲
- 「原爆を許すまじ」
- 「青い空は」
- 「死んだ女の子」
原水禁といえば、私はこの三つの楽曲を思い出します。
原爆を許すまじ
Youtubeに、東広島混声合唱団の演奏が掲載されていましたので、ご紹介したいと思います。
東広島混声合唱団は、戦争や原爆投下により無念のうちに亡くなられた方々の声となり、共に歌う活動をしておられます。
「原爆をゆるすまじ」は、浅田石二が作詞し、木下航二が作曲した反核運動の象徴的な楽曲です。
この曲は、1954年のビキニ環礁での水爆実験による第五福竜丸事件を契機に作られました。事件を受けて、核兵器の恐ろしさとその廃絶を訴えるために作られたこの曲は、原水爆禁止運動の中で広く歌われるようになりました。
歌詞は、核兵器による被害の悲惨さを訴え、「三度許すまじ原爆を」という強いメッセージを繰り返します。この曲は、被爆者や平和活動家たちによって多くの集会やイベントで歌われ、核兵器廃絶の重要性を訴え続けています。
青い空は
「青い空は」は、小森香子が作詞し、大西進が作曲した楽曲です。この曲は、広島や長崎の原爆被害を忘れないために作られたもので、平和への願いが込められています。
歌詞は、青い空が子どもたちにとって平和の象徴であることを伝え、戦争の悲惨さを二度と繰り返さないという強いメッセージを持っています。
特に、8月6日の広島原爆の日に関連するイベントでよく歌われ、平和を願う多くの人々に親しまれています12。
この曲は、平和運動の一環として多くの合唱団によって歌われ続けており、戦争の悲惨さと平和の大切さを次世代に伝える重要な役割を果たしています。
【広島原爆のうた】死んだ女の子
• 死んだ女の子
原詩 ナジム・ヒクメット
原曲作曲 木下航二
この動画は、原曲の「死んだ女の子」をアレンジして、歌っておられます。
Covered by 元ちとせ
編曲 外山雄三
こんなメッセージがつけられていました。
今年もあれから77回目の夏がやって来ました。
原爆で被爆されたすべての方々、
戦争で亡くなられたすべての方々へ
ご冥福をお祈りいたします。
広島県出身のシンガーの自分が、
今自分に出来ることは何か考え、
昭和30年代当時よく歌われていたという
ヒロシマの歌、「死んだ女の子」
という歌を、歌い継いでお送りさせていただきたいと思います。
まとめ
日本被団協のノーベル平和賞受賞は、核兵器廃絶に向けた重要な一歩です。
私たち一人ひとりが、核兵器のない平和な世界を目指して行動することが求められています。
被団協の活動に学び、私たちも未来のために何ができるかを考え、行動していきましょう。
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