バレーボール日本代表の強力アタッカー清水邦広選手とはどんな選手でしょうか?
“中島美嘉”さんと結婚されたので知っている方も多いかもしれませんね。
清水邦広は男子バレーの不死鳥。今、目指す東京五輪で「何としても結果を」と頑張っておられます。
今回は、清水邦広選手の「ポジションは?」「バレーボールの実力は?」を始め、気になる兄弟・父母・結婚と離婚、選手生命を左右する大怪我からどのようにして復帰したか?など一挙公開したいと思います。
清水邦広選手の Wiki プロフィール・経歴公開!
ブロフィール
- 名 前:清水邦広(しみず・くにひろ)
- 愛称:ゴリ
- 生年月日:1986年8月11日
- 年 齡:33歳(2020年3月現在)
- 出身地: 福井県福井市品ヶ瀬町 (旧足羽郡美山町品ヶ瀬)
- 出身学校:福井市立美山中学校 福井工業大学附属福井高等学校 東海大学
- 身 長:193cm
- 体 重:94kg
- 血液型:B型
- 所属:パナソニック・パンサーズ(2009年- )
- 利き手:左
- 指高:260cm
- スパイク:348cm
- ブロック:330cm
- ポジション:オポジット(OP)
- 配偶者: 2014年12月25日、中島美嘉(歌手)と結婚。2018年2月3日、離婚
小学校・中学校・高校時代の清水邦広選手は?
1986年福井県で生まれ、ママさんバレーをしていたお母さんの影響で、上宇坂小学4年(上宇坂スポーツ少年団)よりバレーボールを始めました。
福井工業大学附属福井高等学校を経て、東海大学に進学。大学在学中の20歳のときに、なんと日本代表に選出されます。
その後、2007年ワールドリーグ東京大会には緊急招集され、翌日の試合でいきなり代表デビューを飾ります。同年のワールドカップでは、初戦の勝利に貢献するなど活躍します。
2008年、北京オリンピック世界最終予選を経て、福澤達哉とともに最年少の21歳で北京オリンピック代表に選出され出場します。
2009年4月、パナソニック・パンサーズに入団。
・全日本代表 – 2007年-
・北京オリンピック – 2008年
・ワールドカップ – 2007年、2011年、2015年
・ワールドリーグ – 2007年、2008年、2009年
・ワールドグランドチャンピオンズカップ – 2009年、2013年
2009年
・第58回黒鷲旗全日本男女選抜大会 黒鷲賞(最高殊勲選手)、ベスト6
・ワールドグランドチャンピオンズカップ ベストスコアラー賞
2010年
・2009/10 Vプレミアリーグ 最高殊勲選手賞、スパイク賞、ベスト6
・第59回黒鷲旗全日本男女選抜大会 黒鷲賞、ベスト6
2011年 – 2010/11 Vプレミアリーグ ベスト6
2012年 – 2011/12 Vプレミアリーグ ベスト6
2014年
・2013/14 Vプレミアリーグ MVP、ベスト6、スパイク賞
・第63回黒鷲旗全日本男女選抜大会 黒鷲賞、ベスト6
2015年
・第18回アジア選手権 MVP
2016年
・2015/16 Vプレミアリーグ 敢闘賞、ベスト6
清水選手のオポジットってどんなポジション?
オポジットとは、“OP”と表記されることもある“守備を行わず攻撃のみを行うポジション”を指します。
日本で少し前に“スーパーエース”と呼ばれていたポジションにかなり近いものがあります。
基本的には、セッターの対角線上に配置され、常に(後衛時もバックアタック)攻撃に参加するのが特徴です。
左利きの選手が多いポジションで、清水選手も左利きです。
清水邦広選手の父・母は高身長?年収や気になる性格も?
両親の身長は?
193cmという高身長の清水選手なので、ご両親の身長を調べて見ましたが、父親の情報はありませんでした。
母親の加世子さんは、実業団バレーボールで活躍した経験がある方ですが、身長は普通の方です。中島美嘉さんと同じくらいなので、165cmくらいでしょうか。
お母さんは、女手ひとつで清水選手を育て上げられたそうです。
清水選手の年収は?
気になる年収ですが、スポーツメーカーとの契約はほぼ1000万円程、全日本代表に選ばれたので多少は増えそうですが、サッカーや野球ほどには高くないのが実情のようです。
清水邦広選手と中島美嘉さんとの離婚理由は遠距離?
清水選手は、3年間ほどお付き合いしていた中島美嘉(歌手)さんと2014年12月結婚。中島美嘉さんとの愛の巣として. 大阪の寝屋川ある豪華タワーマンションを購入しました。
しかし、おしどり夫婦とも噂されていたお二人が、何故か3年で離婚となってしまいました。清水選手と中島美嘉さんとの間でどんなことがあって離婚にいたったのか、浮気や不妊も関係があったのか、気になりますね。
メディアの取材では、離婚原因は2人の距離だったそうです。中島さんの活動の中心は東京、仕事を続けながら東京に母親と住むマンションも購入されていました。2億円も?との噂も、ありました。一方の清水選手の活動は大阪が中心。
もともと遠距離の生活だったところから、徐々に溝が深まっていって離婚したのかも知れないですね。
清水選手の思いがけない悲劇と復帰への戦い!
東京大会でのリベンジへ
日本のバレーは、北京大会後、ロンドン・リオデジャネイロと2大会連続でオリンピックに出場できず、エースとして清水選手は大きい責任を感じていました。
「東京2020オリンピックで、バレーボールは必ず結果を残さなければならない」そう意気込んでいた矢先、悲劇が起こってしまいます。
選手生命が終わるほどの大怪我との壮絶な戦い!
2018年2月のVリーグでの試合中ファイナルステージで、アタックし着地した際に右足を負傷し、右前十字靱帯損傷で全治12か月と診断されます。
試合中ブロックされたボールを避けようと して、着地に失敗ありえない方向に曲がってしまったのです。診断の結果は、右膝の前十字靭帯断裂、内側側副半月板損傷に加え、軟骨の損傷・・・・・。
選手生命を脅かすほどの大けがで日常の生活も心配なほどでした。
この大怪我で長期離脱を余儀なくされてしまいますが、懸命なリハビリを重ねた結果、不死鳥のごとくに昨シーズンの終盤に復帰することが出来ました。
そして、再び日本代表でもプレーも。清水選手は、遠ざかったかに見えた東京五輪出場を再び手繰り寄せました。
諦めかけた清水邦広を支えた名医。バレー界に信頼される「荒木先生」
右膝の前十字靭帯断裂、内側側副靭帯断裂、半月板損傷、軟骨損傷。この大怪我からの復帰は、清水自身の努力と執念の賜物でした。しかし、1人ではなし得なかったのも事実。清水先週はこのように語っていたことがあります。
「荒木先生がいなかったら、引退していたと思います」
歩くことさえままならずに出口の見えない戦いを支え、励まし、諦めかけていた清水選手を支えた名医、荒木先生の存在無しに清水選手の復帰は無かったのかも知れませんね。
心が折れそうになった時、支えてくれたチームメイト!
また、心が折れそうになった時支えてくれたのがチームメイトでした。
「どんなに辛くても絶対に助けるし、どんなことがあっても一緒になって頑張って行こう!」と言って励ましていたメンバーのお陰で、『もう一度このメンバーで一緒にバレーボールをしたい』と決心したそうです。
このままでは終われない。清水選手は必死にリハビリにとりくみ、徐々に足も動くようになり、7ヶ月後に、ようやくチームに合流しました。
エースが戻ってきた!
2019年10月ワールド日本代表に復帰。世界ランキング6位を相手にスタメンとして出場します。
そして、見事28年ぶりの4位を勝ち取り、貢献しました。
壮絶な困難を乗り越え奇跡の復活を遂げた清水選手ですが、東京オリンピック へ2月には、東京2020日本代表に登録される27人の一人にも選ばれました。
そこから東京オリンピックに出場できる12人に選出にされるようアピールを続けていくことになります。
まとめ
清水邦広は、まさに男子バレーの不死鳥。
目指す東京五輪で「何としても結果を」残していただきたいものですね。
清水選手のスパイクに注目して応援していきましょう。
コメント