NHKの報道で、渋谷に集まった若い人たちが「死」について語り合う姿を見ました。正直に申し上げて、私はしばらく画面の前で言葉を失いました。
「死」は、年齢を重ねた者だけの話題ではない。いまを生きる若者の胸にも、確かにその問いがあるのだと知ったからです。
戦争、災害、気候変動、そして思いがけない感染症のニュース。82歳の私もまた、世界の混迷を前に、胸の奥がざわつく日々を過ごしています。けれども、死を見つめることは、ただ暗い話をすることではありません。むしろ、限りある命をどう受け取り、今日をどう生きるかを考える、静かな羅針盤になるのだと思います。
灯台守渋谷の若者が「死」を語り始めた衝撃


2026年4月、東京・渋谷ヒカリエで「Deathフェス」が開かれました。公式サイトによれば、この催しは「死」というテーマから人生と社会の可能性を問い直す場として企画されています [cite: 1]。入棺体験や尊厳死に関する情報発信など、死を身近な問いとする多様なプログラムが行われ、NHKでもその動きが報じられました [cite: 2]。



サトルくん、その通りだと思います。若者が死を語ることは、決して「生きる力が弱い」という意味ではありません。むしろ、漠然とした不安に名前をつけ、誰かと分かち合おうとする誠実な営みではないでしょうか。
私たちの世代は、死を家の中で静かに受け止めることが多かった。けれど、核家族化が進んだ現代では、死を語る場所そのものが少なくなりました。だからこそ、渋谷という街でこの場が生まれたことに、私は深い意味を感じるのです。
「終活」だけでは片付けられない命の危うさ


近年、「終活」という言葉は一般的になりました。しかし、いま若い世代が感じている不安は、従来の準備だけでは受け止めきれないものかもしれません。紛争や激甚化する災害、そして異常気象。私たちは便利な時代に生きながら、同時に足元の不確かさも抱えています。
感染症についても同じです。たとえばハンタウイルス肺症候群について、WHOや厚生労働省は、主にげっ歯類の排泄物を介して感染し、重篤な呼吸不全を呈することがあると説明しています [cite: 3, 4]。大切なのは恐怖をあおることではなく、「命はいつも、自然や社会とつながっている」という事実を科学的な目で見つめ、落ち着いて備えることです。



82歳の私が見てきた「命の尊厳」


82年の人生を振り返ると、多くの別れがありました。学校現場にいた頃、私は子どもたちに理科を教えながら、命の不思議に何度も触れてきました。小さな種から芽が出る。季節が巡り、若葉がつく。命は決して抽象的な言葉ではなく、校庭の土にも子供たちの笑顔の中にも、確かに存在していました。



灯台守の言葉は重いですね。私もまったく同じように感じます。命を大切にするとは、大きなスローガンではなく、目の前の人の話を聞く、食卓を囲むといった、小さな行為の積み重ねなのです。
死を見つめることは、今日を照らすこと


死を見つめることは、今日を照らすこと。自分の最期を想像してみると、逆に「今のうちに伝えておきたい言葉」が浮かんできます。ありがとう。ごめんなさい。会えてよかった。その言葉は、最期の日まで待たず、今日伝えてもよいのです。



若者の不安と、高齢者の経験が出会うところに、これからの社会を照らす小さな灯りが生まれるのではないでしょうか。
次回へ。家族葬の現場から学んだこと
次回は、私自身が「家族葬」のお手伝いをした経験から、「命のバトン」について書いてみたいと思います。家族葬の現場にある静かなまなざし。そこから私が学んだ、命の受け渡しについて綴ります。





